はらだみずき著『海が見える家』
あらすじ
緒方文哉はとある訃報をきっかけに長年疎遠になっていた父親の家へと足を運んだ。父親が終の住処としたのは、文哉の生まれ育った実家とは別の場所だった。その地で、父親の痕跡をたどりながら、最期の瞬間まで、どうやって生きていたのかを知っていく。
なぜ、父はその場所を選んだのか。父と子の最後の対話に耳を澄ませてみてほしい。
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もし、自分の両親が死んだら。そんな、遠い未来のことを考えるのは、難しいものです。とはいえ、その瞬間はいつか必ず訪れるとうのは、きっと誰もが同意する自明の理とういものでしょう。
一般的に、死というものは悲しみに包まれています。故人との別れは、どんな形であれ悲しいものです。
けれども本書『海の見える家』における死というのは、必ずしも悲しいばかりではないように感じました。
父親の死の一報をきっかけに、長年疎遠になっていた主人公・文哉が父親が最期を過ごした土地で生活し、最期の対話をする、という内容です。
もちろん、故人と会話をするのは不可能です。では、どうやって対話をするのかというと、父親の通っていた場所、どんな仕事をしていたのか、どうやって生活をしていたのか、趣味は何だったのかなど。そういったことを知っていくことで、生前は知ることができなかった姿を知ることができていきます。
そうやって、対話をするのに一役買ったのが『和海』という人物でした。父親と深く関わりのあった和海は、その訃報をいち早く知らせてくれた人物でもあります。
彼がいなければ、対話の機会はなかったといっていいでしょう。それに、彼自身も、耳や父親の対話に大きな役割を担ってくれました。
本書を閉じて、まず最初に思ったのは自分は親のことをどれだけ知っているだろう、ということです。
ずっと共働きだった両親。思い返せば、僕は両親に対して迷惑ばかりかけていたような気がしています。むしろ、今でもそうであるような気がしてなりません。
逆に、両親は僕のことをどれだけ知っているのだろう、というのも考えました。
順当にいけば、僕が両親より先に死ぬことはありませんし、僕自身そのつもりです。
けれど、本書の中でも文哉の父親は予期せぬ内に亡くなってしまいました。
僕も、文哉の父親のように突然この世を去る、というのはない話ではありません。
もしそうなった時、僕は両親に対して何を残せるのだろうということも考えました。
本書を読み終えた時、きっと誰もが死を意識することだと思います。
真っ先に自分の両親。そして周りの人々。そして自分。
死はいつでも身近にあるものだということを、認識させてくれる、という一面もある本だと思いました。
自分が死ぬ、あるいは両親が死ぬというのは、あまり考えたくない、受け入れ難いことです。でも、必ず訪れるその瞬間のことは、考えなくてはなりません。
この記事を書いている現在2023年秋、僕はそろそろ30歳になろうとしています。ふと両親を見ると、年を取ったなぁと感じることが増えました。
文哉のように疎遠になっているわけではありませんが、それでも会話は少なくなってしまったように思います。
もしかしたら、僕と同じような人が世の中にはたくさんいるのかもしれません。
そういう人にこそ、きっと響くものがあるのではないかと思いました。
それでは、今日はこのへんで終わりにします。また次回お会いしましょう。
さようなら。