シェリー・ケーガン著『DEATH 死とは何か イエール大学で23年連続の人気講義』
概要
我々はいつか死ぬ。望むと望まざるとに関わらず、その時は必ずやってくる。だからこそ、我々は向き合い、考えなくてはならない。死と何か、死ぬとはどういうことか。本書を通して、向き合い、考え抜いて、そして生きることを多いに謳歌してもらいたい。
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本書『DEATH 死とは何か』を読み終えての感想を一言で表すとするなら、きっとき「生きていくための案内版のようだ」ということになるのかなと思います。
本書は死というデリケートなテーマを扱った書籍です。僕はこの本を読むまでは、死ぬということを漫然と「機械が壊れるようなものだ」と考えていました。
しかし、今やその考えにも疑問が生まれてしまったのも事実です。僕達人間の死というものが、機械が壊れるようなものだとするなら、人生というものはただ空虚なそれになってしまうような気するからです。
本書は、僕がそれまで考えていた「死ぬとは機械が壊れるようなものだ」という考えを否定するものではありませんでした。といって、肯定もしてくれません。
ただただ、死という概念に付いて語り、様々な考察を交えてシェリー先生の考えを延べくてくるというそれだけのことです。
それだけのことが僕の考えに疑問を抱かせるには十分でした。おそらく、読者の誰にとってもそうだと思います。
今後、僕たちが不死を達成するまで(いつかそんなことが現実になると仮定して)僕たちは死と向き合い続けなければなりません。自分の死、あるいは身近な人の死を経験していくことになるでしょう。
そうした中で、なぜ人は死ぬのかという答えのない疑問に何度もぶつかることになると思います。そんな時、きっとシェリー先生の言葉がひとつの道しるべになってくれるのでは?と僕は思います。
最後に、印象に残った例えがあったので、ひとつご紹介させていただきます。
自殺についての話でした。
自殺が正当性、妥当性を帯びるのは人生においてどのあたりからか、というものです。
自殺が正当性、妥当性を持つのは人生において「死んだほうがまし」という状態に陥った時です。
しかしそこには「冷静さ」「客観性」など、いくつかの前提条件があるとシェリー先生はおっしゃいます。そして大抵の場合は自殺を考える際にはそうした前提条件を欠いているものだとも。
つまり、自殺とは論理的に破綻した行為なのでしょうか?それとも、それもまた本人の自由意志とするべきなのでしょうか?
最後にこの問いを投げかけて、今回は終わりにしたいと思います。
いかがでしたでしょうか?もし興味が出たという人がいましたら、ぜひ読んでみてください。
それでは、また次回お会いしましょう。さようなら。